長安圭一さんと巡る笠岡市神島

笠岡観光

今回も長安圭一さんに同行してもらい笠岡市を紹介してもらいました。今回は笠岡市神島(こうのしま)です。

  1. 神島資料館
    1. 日光寺
  2. 長安さんと宇根山さんと模型を見ながら出てきた話
    1. 七面山
        1. 笠岡城(古城山公園)の歴史
    2. 大どんす小どんす
  3. 懺悔庵
    1. 長安さんの資料より
        1. 懺悔庵(ざんげあん)
        2. 法界地蔵菩薩(ほっかいじぞうぼさつ)
        3. 彌勒菩薩石像(みろくぼさつせきぞう)
        4. 今田慧弦五輪塔(いまだ えげん ごりんとう)碑文
          1. 碑文・現代語訳(要約)
        5. 五輪塔について
  4. 番外 鯖大師
    1. 長安さんの資料より
          1. 阿波鯖大師(あわさばだいし)由来
  5. 片島の港へ続く道
  6. 弁財天五重塔
  7. 神島天満宮(天神)
    1. 長安さんの資料より
          1. 波影松声三十年(はえいしょうせい さんじゅうねん)
          2. 文人たちの来訪記録
          3. 文人たちについて(概要)
          4. 頼山陽と「波影松声三十年」
          5. 後世に続く詩の系譜
  8. 青島新開(あおしましんかい)について
  9. 第一番 竺和山(じくわさん)霊山寺(りょうぜんじ)
    1. 霊山寺について
    2. 霊山寺堂舎の再建
    3. 池田重郎兵衛(いけだ じゅうろべえ)の碑
  10. 深方新田(ふかがたしんでん)について
        1. 工事の難航と中断
        2. 責任者交代と事業の継続
        3. 幻に終わった先行計画
        4. 地名に残る干拓の記憶
        5. 鳥越城跡について
  11. 第二番 日照山(にっしょうざん)極楽寺
        1. 極楽寺について
        2. 本堂の再建
        3. お籠り堂について
  12. 神島天満宮(こうのしまてんまんぐう)
        1. かつての社地の風景
        2. 不思議な鳥居の伝承

神島資料館

入館の際は隣の神島公民館へ声をかけると開けてくれます。中は立派な作りになっていて、大きな神島八十八ヶ所(札所)の模型があります。霊場をまわる前に一度、神島資料館で位置を確認するとわかりやすいと思います。

住所

〒714-0044 岡山県笠岡市神島4136

TEL

0865-67-4124(神島公民館)

開館時間

月・水・金 9:00~16:00

火・木    9:00〜13:00

休館日

土・日曜日、祝日、年末年始

入館料

無料

 

神島公民館の館長宇根山さんが神島資料館を案内してくれました。

法華寺、自性院、安養院、日光寺はスタンプをもらえるそうです。神島公民館で台紙をもらい、スタンプラリーができます

日光寺

映画の撮影で高倉健が来られたそうです。撮影にたくさんのスタッフがついて、神島が賑わったそうです。

長安さんと宇根山さんと模型を見ながら出てきた話

七面山

笠岡城(古城山公園)の出城があった場所だそうです。小見山氏が築城したそうです。

笠岡城(古城山公園)の歴史
  • 笠岡城(かさおかじょう)は、現在の古城山公園の場所にあった戦国時代の城です。弘治年間(1555〜1558)に**能島村上水軍の一族・村上隆重(むらかみ たかしげ)**によって築かれたとされています。city.kasaoka.okayama.jp、攻城団、ウィキペディアより引用

  • 城は海に突き出した半島状の古城山(当時は海に面していた)に築かれ、水軍の拠点として使われました。

  • 村上隆重の後は、村上景広・毛利元康らが城主となり、関ヶ原の戦い(1600年)後は徳川氏領となって小堀正次(遠州の父)が代官として置かれました。 その後、池田氏の城となるものの廃城になりました。ウィキペディアより引用

  • 明治以降、山頂部は埋め立て用に削られてしまい、現在では古城山公園として整備された桜の名所になっています。

大どんす小どんす

長安さんは昔、大どんす小どんすの間を泳いで渡っていたそうです。潮の流れが早いところで、潮の流れをうまく利用して渡っていたそうです。実際、見てみると結構距離があると思いますが😆昔の人は元気だったんですね。

懺悔庵

資料館を出て懺悔庵へ。ここは神島四国巡礼の最初に行くところです。ここには弥勒菩薩、法界地蔵、今田慧弦(いまだ えげん)の供養塔があります。今田慧弦は江戸時代中期の笠岡・神島の商人であり、神島八十八ヶ所霊場の開祖(創設者)とされる人物です。 

長安さんの資料より

懺悔庵(ざんげあん)

鯖大師御堂から南へ進むと、左手に方形造りの立派な御堂が現れます。
これは、片山市太郎著『神島巡遊案内』に記されている「弘法大師御堂」、すなわち懺悔庵と呼ばれる場所です。ここは神島四国霊場巡拝の基点となっています。懺悔庵のそばには、「霊場巡拝道標基点」と刻まれた、高さ約1.7メートルの石碑が建てられています。
渡し舟で神島に上陸した巡礼者は、まずここで俗世での行いを懺悔し、心身を清めてから札所巡りを始めました。このように、巡拝に先立って懺悔を行う習わしは、四国本場や他の霊場には見られない、神島四国霊場独自のものです。「懺悔庵」という名称も、この習わしに由来するものと考えられています。巡拝を無事に満願すると、巡礼者は再び懺悔庵を訪れ、御礼参りをして神島を後にしました。

法界地蔵菩薩(ほっかいじぞうぼさつ)

懺悔庵の境内には、本尊の地蔵菩薩とは別に、露座の石造地蔵菩薩像が祀られています。この地蔵菩薩は「神島瀬戸の法界地蔵」として広く知られています。「法界」とは仏教用語で、人の意識の対象となるすべての世界を意味します。そのため法界地蔵は、寺院や墓地の入口付近に祀られることが多く、ここ神島でも海峡に近い場所で人々を見守っています。地蔵菩薩は、釈迦牟尼仏が入滅してから、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの五十六億七千万年のあいだ、観音菩薩とともに仏に代わって衆生を救うとされています。人々の苦しみや悩みを代わって受けることから、「代受苦(だいじゅく)の菩薩」とも呼ばれ、古くから厚い信仰を集めてきました。神島四国霊場を巡拝した人々も、この法界地蔵のご利益をいただき、心を整えて島を去っていったことでしょう。

彌勒菩薩石像(みろくぼさつせきぞう)

法界地蔵菩薩の脇には、石造の大きな彌勒菩薩像が安置されています。彌勒菩薩は獅子座に坐し、宝塔を手に持つ姿で表されています。塔身部分には、四仏の種字のほか、懺悔庵建立に関わった施主の名などが刻まれています。この彌勒菩薩像は、後述する難波太治兵衛の養子らが建立施主となって造立されたものです。基壇を含めると高さは約4メートルにも及び、神島四国霊場の中でもひときわ存在感のある石仏です。基壇上段には四仏の種字が刻まれ、他の面にも多くの刻字が見られます。
その全文は「神島の金石文」に収録されています。基壇下部には、多くの建立施主や世話人の名が刻まれていますが、風化が進み、現在判読できるのは、生長小十郎、矢掛屋清兵衛、伏見屋紋三郎、華屋定兵衛、中塚谷五郎、泉屋次郎、汁方佐太郎などの名に限られています。

今田慧弦五輪塔(いまだ えげん ごりんとう)碑文
碑文・現代語訳(要約)

神島は、備中国の海浜に浮かぶ小島で、古くから風雅を好む人々に賞されてきた景勝の地である。
南には四国を望み、その地形もまた霊場にふさわしい姿をしている。弘法大師空海は、四国に生まれ、修行の末に八十八ヶ所の霊場を開かれた。後の世の人々はその徳を慕い、霊場を巡拝して、福を願い罪を懺悔することが絶えることがなかった。これを四国巡礼といい、その道のりは三千里にも及ぶとされる。今田慧弦は、神島の地形が四国に似ていることに着目し、この島に四国霊場を写すことを思い立った。島人・十郎兵衛と相談を重ね、ある夜、十郎兵衛の夢に一人の聖僧が現れ、「四国の霊跡をこの島に移し、人々を救いなさい」と告げたという。これを霊験と受け止めた慧弦と十郎兵衛は力を合わせ、山や岩、海辺、木立の陰に至るまで四国霊場にならい、八十八体の石仏を安置して霊場を完成させた。その結果、老若男女、病ある者もこの霊場を巡拝し、祈りを捧げる人々は日に日に増えていった。これは寛保元年(1741)頃のことである。慧弦は笠岡の人で、俗名を卯兵衛といい、その志を後世に伝えるため、この五輪塔を建立し、ここに碑文を記す。

五輪塔について

懺悔庵の境内に建つこの五輪塔は、神島四国霊場の開創者・今田慧弦の墓碑であると伝えられています。霊場の完成後も多くの巡礼者がこの地を訪れ、慧弦の志と信仰は現在まで受け継がれています。

番外 鯖大師

この地には、弘法大師(お大師さま)と鯖売りにまつわる「鯖大師」の伝承が残っています。汚れた身なりのお大師さまに鯖を分けなかった鯖売りが、後に困難に遭い、お大師さまに助けられたことから、感謝して祠を建てたという話です。また、この話にちなみ、三年鯖を食べないと誓って祈った人もいたと伝えられています。

長安さんの資料より

阿波鯖大師(あわさばだいし)由来

弘法大師空海が旅の途中、行基菩薩がお手植えされた松のそばで野宿をしていたときのことです。
そこへ、塩鯖を運ぶ馬子が通りかかりました。弘法大師が馬子を呼び止め、鯖を分けてほしいと頼んだところ、馬子は「坊主のくせに魚を食べるのか」と大師を罵り、そのまま立ち去ってしまいました。ところが馬子がその先の険しい道に差しかかったとき、突然、馬が激しい腹痛を起こして苦しみ始めます。途方に暮れた馬子は、先ほどの僧のことを思い出し、引き返して弘法大師に詫び、鯖を差し出して加持を願いました。弘法大師が憐れみ、お加持の水を馬に与えると、馬の腹痛はたちまち治ったといいます。さらに、献じられた塩鯖を海中に投じてお加持を行うと、鯖は息を吹き返し、感謝の意を表すかのように、海面に幾度も輪を描いて泳ぎ、やがて海中深く去っていきました。この不思議な出来事を目の当たりにした馬子は、僧が弘法大師その人であったことを悟り、自らの無礼を深く恥じました。そして大師の霊験に心を打たれ、その地に庵を結び、深く帰依したと伝えられています。※あくまでも阿波の鯖大師の由来で、神島に伝わっているのではありません。

片島の港へ続く道

鯖大師から橋の方へ細い道があります。昔はこの道を使い港へ行っていたそうです。歩いてみると、アスファルトの部分もあり、昔はたくさんの人が通っていたなごりがありました。干拓ができる前は片島へ行く場合、港まで行って、ドラム缶を叩くと、片島から船が迎えにきてくれていたそうです。(港と言えるほどの施設ではありませんでした)

弁財天五重塔

弁財天五重塔は、正式には神島伊吹山弁財天といい、横島との間にある海峡の岩礁上に祀られています。元禄年間(1688〜1704)、瀬戸の渡船場が開設された際、領主であった水野美作守勝重と、地元庄屋の小見山氏らの尽力により、日本五大弁財天の一つである安芸国・宮島弁財天を勧請し、海峡守護の神としてこの地に安置されました。宝暦年間(1751〜1764)、大風浪によって塔は倒壊し、その後しばらく祭祀は途絶えていました。しかし明治元年(1868)12月、安養院第四十世・衛護龍海上人が、一夜、白蛇の群れが伊吹山を巡って昇天する夢を見ました。これを経典に照らして考察した結果、ここが弁財天の霊跡であることを確信し、当時の庄屋であった中塚氏に相談しました。その後、広く信者から浄財を募り、翌明治二年(1869)3月、大原(現在の浅口郡里庄町大原)の名工・妹尾勘次郎の製作による陶製の五重塔が建立され、弁財天は再興されました。ところが明治43年(1910)の台風により、再び塔は倒壊します。これに対し、安養院第四十四世・教舜和尚は、大原の不動院住職である雲井宥範和尚と協議し、前回同様、十方の信者の協力を得て速やかに再建しました。このことからも、弁財天への信仰がいかに篤かったかがうかがえます。現在も毎年6月16日には祭典が行われています。さらに平成2年(1990)の台風によって三度目の倒壊に見舞われましたが、翌年には再建され、現在に至っています。なお、この伊吹山は古くから**「くれめぎ島」**と呼ばれていたと伝えられていますが、どのような漢字が当てられていたかは分かっていません。

神島天満宮(天神)

長安さんの資料より

波影松声三十年(はえいしょうせい さんじゅうねん)

― 神島天満宮に集った文人たち ―

江戸時代、神島天満宮はその風光明媚な景観から、多くの**文人墨客(詩人・学者)**が訪れる場所でした。彼らは境内を歩き、波の音や松風に耳を澄ませ、詩を詠み、その感動を言葉に残しました。

なかでも、頼山陽が詠んだ「波影松声三十年」の詩は特に有名で、現在も詩碑として神島天満宮の境内に残されています。この詩は、変わらぬ自然の姿と、移ろう人の時を重ね合わせた名詩として、今も多くの人の心を打っています。

文人たちの来訪記録

記録によれば、
寛政4年(1792年)3月10日、次の四名が神島天満宮を訪れました。

  • 西山拙斉(招斉)(鴨方)

  • 小寺清先(笠岡)

  • 菅茶山(備後・神辺)

  • 僧・道光(出雲・松江)

この日の様子は、次のように記されています。

この日、風は静かで波は穏やか、
松の音はかすかに響いていた。
彼らは景色を味わいながら歩き、
襟を開き、心を解き放って詩を吟じた。

原文

此ノ日、風括カニシテ波細カニ

松琴暗々 徘徊吟シテ景ヲ撫シ

襟ヲ披ク

彼らは社殿の柱に詩を書き記し、神島天満宮は詩と学問の交わる場となりました。

文人たちについて(概要)

西山拙斉(1735–1798)

鴨方の人。儒学・和歌・漢詩に通じ、とくに白楽天の詩風を慕った人物です。

菅茶山(1748–1827)

備後国神辺の人。関西の詩風を一変させたと評される詩人で、家塾「廉塾(黄葉夕陽村舎)」を開き、多くの人材を育てました。

小寺清先(1748–1827)

笠岡の神職。神道・儒学・和歌に長じ、敬業館で後進の教育に尽力しました。

道光

大坂出身。出雲・松江郊外の報恩寺住職を退いた後、庵を結び、詩作に専念しました。詩集『聴松庵詩鈔』を残しています。

頼山陽と「波影松声三十年」

文政8年(1825年)10月19日、歴史家・詩人として名高い頼山陽が神島天満宮を訪れました。彼は、若き日に学んだ菅茶山ゆかりの詩が社殿の柱に残されているのを見て、深い感慨に打たれ、七言絶句の詩を詠みました。それが、**「波影松声三十年」**です。この詩は、波のきらめき 松を渡る風の音 三十年という歳月を通して、人は移ろい、自然は変わらずそこにあるという想いを詠み上げています。当初、柱に書かれた詩は簡素な表現でしたが、のちに頼山陽は推敲を重ね、現在知られる完成形となりました。この詩は、神島天満宮の境内に建つ詩碑に刻まれ、今に伝えられています。

後世に続く詩の系譜

その後も、丸山株脩(笠岡の庄屋・詩人)阪谷朗蘆といった人物たちがこの地を訪れ、頼山陽の詩に韻を踏み、新たな詩を詠みました。丸山株脩は、「松の音と波の影は、今もなお変わらない」と詠み、
朗蘆は、振り返れば三人の翁の筆跡は連なり 松声と波影はいまも昔のままと結んでいます。

青島新開(あおしましんかい)について

青島新開とは、江戸時代に行われた干拓事業によって、新たに開かれた土地のことを指します。
現在の景観からは想像しにくいですが、かつてこの一帯は海に近く、潮の満ち引きの影響を受ける場所でした。当時、土地を広げ、田畑をつくることは人々の暮らしを支えるために欠かせない事業であり、干拓は地域の将来を左右する大きな挑戦でもありました。青島新開の干拓は、多くの人々の労力と協力によって進められ、堤防を築き、海水を防ぎ、少しずつ土地を造成していったと伝えられています。自然を相手にした工事は困難を極め、嵐や高潮によって何度も失敗を重ねながらも、人々はあきらめず、土地を切り拓いていきました。この新開地の完成によって、農地が増え、食料の生産が安定し、地域の暮らしは大きく向上しました。青島新開は、単なる土地造成ではなく、人々の生活と信仰を支える基盤となったのです。また、こうした開発が進む中で、人々は自然への畏敬の念を忘れず、神仏に感謝と祈りを捧げてきました。神島四国霊場や周辺の信仰施設は、この地で生きる人々の心のよりどころとして、干拓の歴史と深く結びついています。

第一番 竺和山(じくわさん)霊山寺(りょうぜんじ)

― 神島四国霊場 第一番札所 ―

御本尊 釈迦如来

御詠歌 れうせんの 釈迦の御前に 巡りきて よろつの罪も 消えうせにけり

施主 石橋屋 喜七郎(堂建立施主 同人)

霊山寺について

神島四国霊場第一番札所・霊山寺は、日限地蔵のある丘陵と向かい合う、小高い丘の奥まった場所に祀られています。神島霊場が開創された当時、この寺の前方一帯は「フケ地」と呼ばれる湿地帯で、
満潮時には海水に覆われる場所でした。現在の穏やかな景観からは、当時の厳しい自然環境を想像することは難しいかもしれません。

霊山寺堂舎の再建

霊山寺の堂舎は、時代とともに老朽化が進みました。そこで、奉願寄付を募り、中塚林一氏を発起人として、地元の大師講組の協力のもと、昭和36年(1961年)10月に堂舎の再建が行われました。この再建により、霊山寺は再び巡拝者を迎える場として整えられ、神島四国霊場の第一番札所としての姿を今に伝えています。

池田重郎兵衛(いけだ じゅうろべえ)の碑

霊山寺の境内には、**池田重郎兵衛の頌徳碑(しょうとくひ)**が建てられています。池田重郎兵衛は、神島四国霊場の開創者・今田慧弦が霊場を創設するにあたり、地元の地理案内人として大きく協力した人物です。(今田慧弦五輪塔の碑文では「十郎兵衛」と記されています)その功績は、今田慧弦の業績と比べても決して劣るものではありません。しかし、長く神島には彼の偉業を称えるものがありませんでした。このことを憂えた深方の故・濱崎梅一氏が、池田重郎兵衛の功績を後世に伝えるため、頌徳碑建立を発願し準備を進めましたが、完成を見ることなく逝去されました。その後、嗣子である濱崎渡氏がその遺志を受け継ぎ、寄附および地元大師講組の協力を得て、昭和37年(1962年)10月20日、霊山寺境内に頌徳碑が建立されました。当日は、自性院住職・山本俊開師の読経のもと、厳かに除幕式が執り行われました。

深方新田(ふかがたしんでん)について

深方新田は、後述する**「西ノ迫新田」**の西側に隣接する干拓地で、文化3年(1806年)に着工されたと伝えられています。

「深方(ふかがた)」という地名は、「フケ潟(湿地)」が転じたものと考えられており、この一帯がかつて湿地帯であったことを示しています。

深方新田と西ノ迫新田は、着工時期・発願者・開発人が同じであることから、
もともとは一つの干拓事業として始められたと考えられます。

工事の難航と中断

西ノ迫新田では文化10年(1813年)に防潮堤が完成したのに対し、深方新田では工事が思うように進まず、完成までに約30年近くを要しました。その理由として、

  • 防潮堤の延長が長かったこと

  • 地名のとおり「フケ地(湿地)」で、
    海底の地盤が非常に軟弱であったこと

が挙げられます。

工事の途中では、防潮堤がたびたび崩壊するなどの事故が相次ぎ、その影響で資金不足や協力者の離脱が起こり、一時は工事が中断されたこともあったようです。

責任者交代と事業の継続

天保3年(1832年)には、ようやく完成しかけた防潮堤が再び崩壊し、当時の責任者であった中塚広右衛門は、庄屋職を退かざるを得なくなりました。しかし、代官の取りなしにより、息子の千代松が、家督を継ぎ、後見人となって事業を引き継ぎます。さらに、笠岡村の難波太治兵衛らの協力を得て工事は再開され、ついに潮止めが完了しました。その後、天保14年(1842年)に新田検地を受け、深方新田は正式に成立します。当時の面積は、一町九反一二歩でした。

幻に終わった先行計画

なお、深方新田については、宝暦12年(1762年)11月、入江新田村の庄屋・鳥越新兵衛が、笠岡代官・風祭甚三郎宛に提出した「深方新田開発願」が残されています。この文書には、神島の庄屋喜左衛門、同村の年寄および百姓代が「異議なし」と奥書しています。横島入江を開発した初代新兵衛は前年に他界しており、二代新兵衛が父の遺志を継いで計画したものと考えられますが、この計画は着工されることなく終わったようです。

地名に残る干拓の記憶

「深方」は、湿地を意味する「フケ」に由来し、じめじめした潟であった土地の性質を表しています。現在も深方地区には、深方新田、深方新田東、深方池の上、深方申酉、深方道の上、深方大平、深方梨の木、深方池など、「深方」を冠する小字名が数多く残っています。これらの地名からは、低湿地であった潟が次第に縮小され、新田として造成されていった過程をうかがうことができ、地域の歴史を知るうえで大変興味深いものです。

鳥越城跡について

深方新田の西側には、東村との境界にあたる小丘陵があります。
その峠の頂点は、鳥越城跡と呼ばれています。『神島内村誌』には、次のように記されています。「東村、深方の峠の頂点、約二段の地、これ城址にして、以前は島民、馬越の城といい伝えたりといふ。
然れども今この地を鳥越といふ」この記述から、この峠が古くから人々に意識されてきた場所であり、地域の境界や防衛に関わる重要な地点であった可能性がうかがえます。

第二番 日照山(にっしょうざん)極楽寺

御本尊 阿弥陀如来

御詠歌 極楽の 弥陀の浄土へ 行きたくは 南無阿弥陀仏を 口癖にせよ

施主 胡屋 儀兵衛(えびすや ぎへい)(堂建立施主 同人)

極楽寺について

本堂は、方一間(ほういっけん)の宝形造りで、本瓦葺きの屋根をもち、雨仕舞として屋根の頂には宝珠が据えられています。この堂舎は、神島霊場に点在する寺院以外の堂舎の中では、とくに立派な建物として知られています。

本堂の再建

現在の本堂は、明治32年(1899年)に再建されたものです。再建にあたっては、成羽の宮大工・樋口氏が棟梁を務め、丁寧な仕事によって、端正で格調ある堂舎が造られました。

お籠り堂について

本堂に隣接して建つ御堂は、参拝者のための**「お籠り堂」**です。巡拝者が静かに祈りを捧げ、身と心を整える場として設けられ、神島四国霊場ならではの巡礼文化を今に伝える建物となっています。

神島天満宮(こうのしまてんまんぐう)

神島天満宮は、島の人々から**「島の天神」**の愛称で親しまれてきた神社です。一説には、**南北朝時代・文和年間(1352〜1356年)**に創建されたと伝えられています。この社地は、菅原道真公が九州・大宰府へ左遷される途中、神島に船を停め、その風光の美しさを賞された場所であるとされています。

かつての社地の風景

『神島巡遊案内』には、当時の神島天満宮の景観について、次のように記されています。

社殿は白砂青松の中にありて、天然の美景に富めり。
満潮時これを望めば、恰も波上に浮かぶがごとく、
宛然、安芸の宮島の景を連想せしむ。
海浜一帯は海水浴場に適す。

白砂と松林に囲まれた社殿が、満潮時には海に浮かぶように見え、安芸の宮島を思わせる景観であったことがうかがえます。しかし残念ながら、天満宮周辺の砂地が宅地化されたことや、環境汚染の影響によって松林が枯死し、往時の風景は現在では見ることができなくなっています

不思議な鳥居の伝承

神島天満宮の入口に立つ鳥居には、古くから語り継がれる不思議な話があります。在田軒道貞による著書『小田物語』には、次のような記述があります。

神島の天神の華表は、
笠木一方は落ち失せ、片々は少しのこり
風にふかれては、ふらふらと動きながらも、
慶長年間(1594〜1615年)より地に落ちず、
村の不思議とは此事なり。

片側の笠木を失いながらも、長年にわたり倒れることなく立ち続ける鳥居は、島の人々にとって天神さまの霊験を感じさせる存在として、語り継がれてきました。

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