当辺から大橋山城趾を望む
大橋山城は、別名「吉浜城」や「葦浜城」とも呼ばれた戦国時代の城です。
1. 城の立地:海に突き出した要害
かつての金浦湾は、寛文2年(1662年)の干拓が行われるまで海が広がっていました。大橋山城は、その湾に突き出した標高約23m(一説には53m)の丘の上に築かれ、三方を海に囲まれた天然の要害でした。
2. 城主・高田氏の興亡
城主は代々、高田河内守の一族が務めました。
- 南北朝時代: 『水野備中領古戦記』によると、建武年間(1334〜38年)に高田則義成重が湊川の戦いで戦死したと記されています。
- 戦国時代: 天正年間(1573〜92年)、当時の城主・高田河内守則義は陶山(すやま)氏との戦いに敗れ、福山大門の真明寺(しんみょうじ)で自刃し、大橋山城は落城したと伝えられています。
3. 逃避行と子孫の伝承
落城の際、城主の娘が家系図などを抱えて西へと逃れましたが、福山の草戸(くさど)で捕らえられました。彼女はその後、現地の郷士(高田氏の遠戚の方だそうです)の妻となり、その家系は代々「高田」を名乗ることになったといいます。
4. 地域に根付く高田一族
また、茂平にある「岩グロ山」は大橋山城の支城(出城)でした。そこに仕えた一族の子孫が、現在の茂平地区に続く高田氏であると伝えられています。大橋山城を拠点とした高田一族は、中世の約200年間にわたり、この地域で強い勢力を誇っていました。
