城見地区まちづくり協議会の方に案内していただきました。参考文献は藤原勉著「歴史散歩 大宜を歩く」です。
羽方神社
この辺りは「観音山」と呼ばれ、かつては神社の境内地でした。
通称「明神様」として親しまれる羽方(はかた)神社には、ある言い伝えがあります。江戸時代初期、瀬戸内海でシケに遭った博多の船が、当時はまだ海だった金浦湾へと迷い込みました。その後、難破した船頭たちが大下村(現在の大宜)に移り住み、自分たちの故郷にちなんで「博多=羽方」として神社を祀ったのが始まりだと言われています。
昭和の頃には、境内で子供相撲が盛んに行われていました。勝った子には100円のご褒美が出るなど、地域の子どもたちにとっても思い出深い場所だったようです。


当辺から大橋山城趾を望む
大橋山城は、別名「吉浜城」や「葦浜城」とも呼ばれた戦国時代の城です。
1. 城の立地:海に突き出した要害
かつての金浦湾は、寛文2年(1662年)の干拓が行われるまで海が広がっていました。大橋山城は、その湾に突き出した標高約23m(一説には53m)の丘の上に築かれ、三方を海に囲まれた天然の要害でした。
かつての金浦湾は、寛文2年(1662年)の干拓が行われるまで海が広がっていました。大橋山城は、その湾に突き出した標高約23m(一説には53m)の丘の上に築かれ、三方を海に囲まれた天然の要害でした。
2. 城主・高田氏の興亡
城主は代々、高田河内守の一族が務めました。
城主は代々、高田河内守の一族が務めました。
- 南北朝時代: 『水野備中領古戦記』によると、建武年間(1334〜38年)に高田則義成重が湊川の戦いで戦死したと記されています。
- 戦国時代: 天正年間(1573〜92年)、当時の城主・高田河内守則義は陶山(すやま)氏との戦いに敗れ、福山大門の真明寺(しんみょうじ)で自刃し、大橋山城は落城したと伝えられています。
3. 逃避行と子孫の伝承
落城の際、城主の娘が家系図などを抱えて西へと逃れましたが、福山の草戸(くさど)で捕らえられました。彼女はその後、現地の郷士(高田氏の遠戚の方だそうです)の妻となり、その家系は代々「高田」を名乗ることになったといいます。
落城の際、城主の娘が家系図などを抱えて西へと逃れましたが、福山の草戸(くさど)で捕らえられました。彼女はその後、現地の郷士(高田氏の遠戚の方だそうです)の妻となり、その家系は代々「高田」を名乗ることになったといいます。
4. 地域に根付く高田一族
また、茂平にある「岩グロ山」は大橋山城の支城(出城)でした。そこに仕えた一族の子孫が、現在の茂平地区に続く高田氏であると伝えられています。大橋山城を拠点とした高田一族は、中世の約200年間にわたり、この地域で強い勢力を誇っていました。
また、茂平にある「岩グロ山」は大橋山城の支城(出城)でした。そこに仕えた一族の子孫が、現在の茂平地区に続く高田氏であると伝えられています。大橋山城を拠点とした高田一族は、中世の約200年間にわたり、この地域で強い勢力を誇っていました。

通称「蛇様」
大橋家一族の守護神です。旧暦11月13日に生卵を供えてお祭りをする習わしが今も守られて
いる。

太歲神社(ださいじんじゃ)
太歳神社と「おさんさま」の伝説
赤い鳥居が目印の「太歳神社」には、地域で大切に守られてきた切ない言い伝えがあります。
1. 歴史を物語る祠と五輪塔
神社の小さな祠(ほこら)には、文政3年(1820年*)の年号が記された木札が今も残っています。また、その右上に見える4〜5基の「五輪塔」は、その形から約450年から500年前のものと推定され、この地の長い歴史を物語っています。
神社の小さな祠(ほこら)には、文政3年(1820年*)の年号が記された木札が今も残っています。また、その右上に見える4〜5基の「五輪塔」は、その形から約450年から500年前のものと推定され、この地の長い歴史を物語っています。
2. 悲運の姫「おさんさま」の伝説
これらの五輪塔は、地元で「おさんさま」と呼ばれ親しまれています。伝承によると「おさん」は、かつてこの地にあった城山(大下)の城主の娘として生まれました。しかし、若くして激しい歯の病に苦しみ、若くして亡くなってしまいます。彼女はこの地に手厚く葬られました。
これらの五輪塔は、地元で「おさんさま」と呼ばれ親しまれています。伝承によると「おさん」は、かつてこの地にあった城山(大下)の城主の娘として生まれました。しかし、若くして激しい歯の病に苦しみ、若くして亡くなってしまいます。彼女はこの地に手厚く葬られました。
3. 歯痛の守り神へ
いつしか「同じ痛みを持つ人を救ってくれる」と信じられるようになり、おさんさまは「歯痛を治してくれる神様」として、多くの人々が祈りを捧げる場所となりました。
いつしか「同じ痛みを持つ人を救ってくれる」と信じられるようになり、おさんさまは「歯痛を治してくれる神様」として、多くの人々が祈りを捧げる場所となりました。
4. 太歳神社と守り人の家系
かつて城主・高田家に仕えていた藤原氏の子孫が、おさんの墓守としてこの地に定住しました。彼らがこの場所で太歳神社を祀り、代々守り続けてきたといわれています。
かつて城主・高田家に仕えていた藤原氏の子孫が、おさんの墓守としてこの地に定住しました。彼らがこの場所で太歳神社を祀り、代々守り続けてきたといわれています。



四ツ堂(よつどう)と第8番観音
20段ほどの石段を登った先に、立派な「四ツ堂」が建っています。
- 建物の特徴と歴史
四ツ堂は壁のない吹き抜け構造で、板張りの床に瓦屋根を冠し、正面には2体の石仏が祀られています。柱や梁(はり)は驚くほど太く、近隣の四ツ堂と比べても格段に立派な造りです。建築年代は不明ですが、明治30年(1897年)に再建されたという記録が残っています。近年は雨漏りなどによる傷みが懸念されています。 - 旅人の休息と信仰の道
江戸時代、四ツ堂は旅人の休憩所として各地に建てられました。吉浜の西堂や東堂、用之江の宮の下などにも見られます。
ここは「金浦33観音」の巡拝路でもあります。吉浜や袖解(そどき)から、大宜(おおぎ)の5番・6番札所を経て歩いてきた巡礼者たちは、この堂でひと休みし、地域の人々から「接待」を受けて旅の疲れを癒やしたのでしょう。

薬師堂:祈りと共にあった暮らし
かつての人々は、豊作や豊漁によって生活が潤うこと、そして一族や子孫が繁栄することを切に願って暮らしていました。
そんな中、人々に最も恐れられたのは「病」や「死」でした。医学が未発達だった時代、人々はただひたすらに神仏へ祈ることで、平癒を願うほかありませんでした。
こうした背景から、病気全般に御利益があるとされる「薬師如来」を祀るお堂や、特定の部位・病気に効くと信じられる神仏が各地に祀られ、人々の心の支えとなってきました。

地蔵様2体と光明真言塔
曼荼羅石とも呼ばれ円形の中に梵字で上から右回りに『おんあぼ
きゃぺいろしゃのおもかもだらばに はんどまじんばらはらばりたや
うん』と書いてある。このお経を1万回唱えて病気平癒や家内安全を願って建てられた。

艮(うしとら)神社
境内に足を踏み入れると、ひときわ目を引く大きな注連柱(しめばしら)が立っています。
- 建立の背景: 柱には「皇紀二千六百年記念」と刻まれており、昭和15年(1940年)に建てられたことがわかります。
- 刻まれた言葉: 草書体で「神徳及蒼生(しんとくそうせいにおよぶ)」「皇威治八紘(こういはっこうをおさむ)」と彫られています。これは「神の徳はすべての人々に及び、天皇の威光は全世界を照らす」という意味です。
- 本殿の歴史: 創建年代は不明ですが、現在の社殿は文化5年(1808年)に再建されたものです。祭神として吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祀っています。

五角柱の地神様(じがみさま)
大宜(おおぎ)地区に唯一残る、珍しい五角柱の地神塔です。
- 特徴と由来: 本来、地神様は川の合流点や道の交差点に祀られることが多いものですが、ここは他所から移設されたと伝えられています。
- 祀られている五柱の神: 正面の「天照大神」をはじめ、倉稲魂命、大己貴命、少彦名命、埴安姫命の五神の名が各面に刻まれています。
- 信仰: 春と秋の彼岸に近い「社日(しゃにち/戌の日)」には祭礼が行われます。人々はここで五穀豊穣を祈り、収穫に感謝を捧げてきました。

竜王様と水分(みくまり)神社
もともとは現在地より50メートルほど高い、松林を抜けた山頂に祀られていました。
- 水の守護神: 竜王様も水分様も「水の神様」です。農家にとって命ともいえる「雨」を司る、非常に大切な存在です。
- 絶やさぬ水: 祠の下には「甕(かめ)」が置かれています。この中の水は、どんな時も決して絶やしてはならないという厳格な守り事が伝えられています。

荒神(こうじん)様
農業の守護神であり、お祝いの神様としても信仰されています。
- 大宜の荒神信仰: かつて大宜には八つの荒神様が祀られていたといいますが、今ではここ一箇所のみとなりました。現在も4年に一度、神楽が奉納されています。
- 荒ぶる神から守護神へ: 「荒神」の名が示す通り、本来は荒々しく、祀らなければ祟りをもたらすほど強い力を持つ神だと考えられてきました。人々はその強い力を丁寧に祀り鎮めることで、自分たちを助けてくれる霊験あらたかな神として敬ってきたのです。

才の峠(せいのたわ)と賽(さい)の神
城見トンネルの真上に位置する峠は「才の峠」と呼ばれ、古くから大宜(おおげ)と生江浜(おえはま)の境界となってきました。
- 境界を守る神様
ここには「賽の神」が祀られています。約400年前、旅人の安全を祈るとともに、村の外から病気や災い(悪疫)が入り込まないようにとの願いを込めて安置されました。 - かつての生活路
昭和39年(1964年)頃までは生活道路として活発に使われていました。生江浜から畑仕事に来る人や、大宜から生江浜へ抜け、渡し船で海を渡って笠岡の「大仙様」へお参りに行く人々が、この峠を連日行き交っていました。

生江浜の地名の由来
この辺りを案内してもらっている時にお聞きしました。この辺りは葦ばかりで、開墾がとても大変な土地だったそうです。この地にすむ人々は「こりゃ、おえんわー」(訳:これは、ダメだ)と云い、「おえんわー」→「おえんはま」→「おえはま」→「生江浜」になったと伝えられているそうです。
金浦坂東33観音:五番札所と六番札所
大宜池の土手を挟むようにして、二つの観音様が祀られています。
- 土手を守る観音様
土手の東側の小高い場所に「五番札所」、西側の観音山に「六番札所」があります。その配置は、まるでお互いに協力して大宜池の土手を見守っているかのようです。 - 巡礼の道
これらの観音様は元禄3年(1690年※)に祀られたものです。吉浜の1番札所を起点に、大宜、用之江、有田、篠坂、入田、西大戸、大河、木の目を巡る全長約28kmの巡礼路となっています。 - 謎が残る巡礼順路
通常、7番札所は用之江の菅原神社の影に、8番は大宜の四ツ堂横にありますが、なぜ現在の順路(5番・6番の後に離れた場所へ飛ぶのか)になったのかは、今も地域の不思議の一つです。城見小学校の下にある道標も、その謎を解く手がかりとはなっていません。他所から移設された可能性も含め、歴史のロマンが感じられます。


